皆様、こんにちは!ダゲホ(台湾語の挨拶)!!JTB台湾マイバスチームです。
桃園を観光したことがありますか。桃園国際空港に到着後、すぐ台北へ向かう方の方が多いですね。
そのため、今回桃園南エリアをメインにして、且つ日本統治時代にまつわるエピソードに触れながら、レトロな雰囲気あふれる「大渓」を紹介したいと思います。
アクセス:
①台湾高速鉄道「桃園駅」の5番出口から出て、台湾トリップ(中国語:台湾好行)の9番ホームより501大渓快線シャトルバスに乗り換え、「大渓バス停」にて下車します。
②台湾鉄道「中壢駅」にて下車後、桃園客運バスの中壢バスターミナルの5098に乗り替え、「新街尾バス停」にて下車します。
③MRT永寧駅の4番出口から出て、桃園客運バスの710バスに乗り換え、「新街尾バス停」にて下車します。
(※桃園客運バスには「大渓バス停」がありますが、大渓老街の最寄りのバス停は「新街尾バス停」です。)
台湾の北西部に位置する桃園大渓は、清朝の時代から木材・茶葉・樟脳などの貨物輸送の中心となっており、大漢渓を利用して、水運方式で各地と繋がり、「物資の集散地」として栄るようになりました。
日本統治時代に入り、建て直しが行われ、ワイヤーケーブルの吊り橋となりました。
1994年に「武嶺橋二號」が出来たことによって、交通機関としての重要性がなくなり、その後、台風の被害もありました。
2004年に再度建て直されて、鉄筋コンクリートの橋となりましたが、橋自体は観光スポットとして扱われるようになりました。
現在は車は通行することが出来ず、歩行者及び自転車のみ通行可能となっています。
外観全体は、日本統治時代に作られた吊り橋を模倣して、その上に、バロック様式も取り入れて、大渓老街との一体感を醸し出しています。
日本統治時代明治42年(1909年)に建てられ、百年以上の歴史を持つ公園です。
元の名は「崁津公園」ですが、1975年に蒋介石を記念するために、「中正公園」に改名されました。大渓中正公園の中には見逃せない見所があります。それは大渓神社の跡地です。当時、桃園の三大神社は「大渓神社」・「桃園神社」・「豊満(ホウマン)神社」です。大渓神社とは、日本統治時代昭和7年(1932年)、桃園の中で最初に建てられた神社です。戦後、残念ながら取り壊されて、今は遺跡のみとなりました。遺跡の真正面は、当時の神社の土台の上に作られた「超然亭」です。遺跡の中で、保存状態が最も良いのは、「超然亭」前の狛犬です。そのほか、石灯篭や参道の遺跡も僅かながら残っています。
大渓は桃園で最も早く発展した地区で、その歴史は清朝まで遡ることができます。1818年、清朝のとき、台湾の五大名家の一つである林家が大渓に引っ越した後、貨物を輸送するために大漢渓を利用し、木材・米・塩などの取引を生業とし、次第に他の商人達も集まり、大渓は「商業の街」、それから「物資の集散地」として栄えるようになりました。
ちなみに、集められた物資は、水運、つまり船を使って、艋舺(龍山寺周辺)や大稲埕(迪化街周辺)、淡水へと運ばれたそうです。
また、大渓老街の見どころについてですが、三つございます。
一つ目は、建築物のことです。この辺りはバロック風と中華風を融合した建築物が多く、明治時代から大正時代に行われた都市計画(=市区改正)のため、道路の拡幅工事や建物の改築工事が行われました。
当時に最も流行っていたバロック様式を取り入れた結果、このようなバロック風と中華風(閩南風)を融合した建築物が誕生しました(外観はバロック式、彫刻などは中華式の麒麟とか果物とか)。
※麒麟とは泰平のしるしのことで、果物は豊作のことを指します。
二つ目は、台湾のB級グルメを味わえることです。
ご当地グルメがいっぱいで、食べ歩きが楽しめるスポットとして人気を集める旧市街です。
豆干、花生糖、豆花などの名物グルメは見逃せません。
三つ目は、当地の民間信仰—福仁宮のことです。
1813年に建造され、二百年以上の歴史を誇るお寺です。地元では、「大廟」とも呼ばれています。日本統治時代、皇民化政策が行われて、民間信仰が禁止となり、福仁宮もお寺ではなく、一時的に戦時の臨時病院となりました。戦後、再びお寺として役割を取り戻しました。